偶像崇拝を続ける彼女たちとの互換性を謳うマスメディアに、騙され続ける打算的な彼らの勝機なんかのために、今に駆逐され、些細な出来事に漁られて行くだけの、価値の中を蛇行し、惰性で導かれたり、互い違いになったりと、長らくなだらかだった世界も、いつしか嫌いになってしまうだけの、今を羨んだり、投げ出したり、投げやりになったり、一貫性を失い、一過性のものに加担したり、拙い意味を崇めたり、羨望ばかりで、成長にも至らずに、誰かと比べたり、くだらないと、冷笑したり、冷静さを失い、そこかしこに現れる憎しみの道具になり、誰かに引き摺られたり、引き合いに出されるものが寄りかかり、偏りを示すだけに至らせるための、指導だったりが、思想信条なんかを持ち出しては、良い気になっているような連中が、生み出す惰性な正義により、拡散された過ちや誤りなんかを、受け入れ続けるだけの、空虚な器として、現れた本質を踏み躙る巨大な足として、システムの飼い犬たる、醜い顔や、カタストロフや、喪失感に垂涎する厭世観の奴隷や、延々と義務感に苛まれては、自分を見失い、自己憐憫に浸るような輩が謳う美しさなんかに、加担したくも無いから、勝手気ままに生きて、勝手に謳っては、奪い合うだけの社会や世界から逸脱して、居ても立っても居られないから、ここに居座る事もなく、意思は依然として、自由なようで、とっ散らかったままではあるが、ありのままの姿ですら、ありのままではなく、所詮は、情報を常用し、あたかも、自分の考えのようで、関連するものが断続し、連続化して今に襲いかかる情報の、餌になる事でしか、生きる役割を果たせないなどと、はしたない運命論に引き摺られる前に、飛び立つしなやかさを手にする。