昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

葛藤


 私は私だけを信じているし、逸脱し続ける先に生み出される最たる意味だけが、今を緻密なものに変えるのだ、と妥当なものを引き出す安易な偏りから、自らとは閉め出され、今に孤立するだけに『終える』などと簡単に処理しては、終わりを謳うだけの閉塞感から産出され続けるのが『偏り』であるし、そこに対価を用い、役柄を与え、相互依存的に転嫁していく痛みが互いの恐怖をまさぐり、新たな快楽に関与し、強調される痛みだけが、生きていることを実感させるのだ、と惰性なものが生み出す意識的なまやかしに麻痺していくだけの意思的な脆弱さに境目を生み出し、浸る痛みに適任していくものだけを正確なものである、と宣言するような幼稚な企みから、貸与する感情に同行するだけのセンチメンタルなものにもとづくエゴが行為に巻き付き、意味を不自由なものに変えるほどに、自らの偏執は加速し、何かを恨むことや、批判することだけが、世界を正解に変えるのだ、という意識こそが、すべてを破壊し、何かを正そうとするほどに、何かを汚すだけに至り、自らが正しいのだ、と信じている先に生まれるあいまいな位置から、引き取る意味が今に膠着を生み、すがるだけの意思は、今に希望を損ない、喪失感に酔いしれ、自らから逸脱できずに、位置的な苦しみに相互互換され続けるものだけが、正解を生み出すのだ、と促すほどに、自らとの間隔は生まれ、戻れぬような距離にまで広がり続け、乖離していく自己に境目を生み出し、差異などを当てこするだけに至らせるような、自らに別れを告げ、新たな自己を生み出し、過去から引きずり、強要されるものから離れるほどに、誰かが謳うような自由などに左右されず、誰にも作用されぬことこそが、自由であるのだ、という安易な観念すらも飛び越え、何かにすがり、楽しむのも自由であるし、何かを利用し、とがめてまでも楽しむことも自由であるのだ、と資本主義的なまやかしを生み出し、衆愚へと誘うだけの論理的な虚偽を生み出し続ける観念を軽蔑したとて、自らが生み出したやましいものを疎外させられずに、ただ幼稚に搾取されるような界隈から奪われるだけの観念云云と叫んだところで、今に浸るだけの意味に偏るだけの独善的なものや、偽善的なものが集約させる約束からは、逃れられない。