愛された間
次々につぎはぎになるものが、継続されたらものをぬりかえ、過信するほどに、すり替えられた思いが、連帯感を謳い、快感をさまたげながら、繰り返しよどむ記憶をぬりかえ、加算されたものが、物語を軽薄にふちどり、負担ばかりを与え、継続されるほどに加工され、囲われた思いもしなびて、いびつなものを形成し、わずらわしく重なりながら、度重なる思いが心情を透過させ、ここで交換される思いが精白さを歎じ、こじつけられたものから放たれ、自らに行き着く。価値を作ると、すぐさま退屈になり、対立が生まれ、価値とは保つためと守るための価値になり、あらゆる価値は、保たれるべく大切に扱われるほどに、価値とは下がる。生まれてから隔てられ、疎外させられることしか学ばずに、ただ阻まれることだけになれしていまったほうが楽になるのだ、と妥当な位置から吐き出されるものとの相似だけをめざすことだけが、よりよいものへと統合され、自らの存在をぞんざいなものに変え、意思を枷に変えるために連動するものと擦れ違い、尊くむすばれる先々で羽ばたく一瞬も、姑息なものに覆われ、即座に変化するものを経て行くほどに、心身とはむしばまれるのだと謳うような潔癖症的な敵意をふくんだ意思的なまがい物を育てるだけの惰性にまつわる出来事に固執するだけの思いなどが重くのしかかり、今に加算される苦しみを告白しながら、しなびた意識にまとまるだけの原理などは、理解へと至らずに、経巡るものに追従し、そこで意識の交換を続けるのだ、と制裁を加え、済世を謳いながら、何かに罪を与え、着せ替えられた意味を着込んで混濁する意識が白昼夢をさまよい、酔いどれる意識は奴隷と化し、加算されるままに斡旋され、軋轢を生み出し、すりかえられる真実が、得たものの価値すら書き換えるような間に憤懣ばかりが生まれ、疑うことだけが、真実へと近付くのだ、と信じることすら忘れてしまうべきだと相互する意識が誤解を生み出し、奪われるだけの真実と、そこで姑息に現れる者が騙るものだけが、真実をものがたるのだとうながすような価値の中で家畜と化すことでしか、真実を理解することもできずに、介する間に廃される愛が即座に自由を謳い、たむろする意識が服従を求め、自由を使い、何かを拘束するだけに至るような間に補足されるものが卑俗なものを謳い、短絡的な動機に同化し、暗澹とした意識は主体性を失う。緩慢にしのばせた愛を孕んで、季節を噛みしめながら、軋む身体をやさしく抱きしめ、できたての愛が補完する誠実さや、生後を超えて、枢要な価値を捨て、損得を謳う以前に、現れるものを、現れるままに包括するままならぬ愛が法則的なものを超え、硬質に至るまでの距離すらも破棄し、時間にそぐうよりも、そこで遭遇するものの必然性にまつわるものすらも不必要で、不潔であることすらも厭わずに、いつわりのものをも軽々と飲み込み、能動的に至る愛が愛であることすらも忘れる間に派生する意識的な聚楽へと入り込み、背徳を超えて、因果律に反し、時間の逆を生き、空間を食べ尽くしても尚、腹減ったとうながす純粋で詩的な瞬間に循環するものとの対話を続け、折れ曲がる春や、解析される前の不純な夏の定理や、理性を喪失しても尚、薄情な秋に聡明な葉の音を聞き、感覚が麻痺しても尚、うつむき加減の冬を軽薄に抱き寄せ、快楽にのさばるものが穎悟を語るような間に補完されるような愛の貧寒さにもふれ、敷衍するものなどのどれもは似たようなものでノスタルジーに浸り、悲哀に満ちたものを謳いながら、奪い合うような愛が変化し、偏執した結果が戦争のようなものであり、そこで物物しく語られるものが憂いに感じ、加算される季節とはそれぞれに欠如を生み出しながら、季節的な諦観が補完する幽遠に実証されるものなどが、存在の不確かさに枷を嵌め、世界性を狭めるだけに至り、裸子と踊る彼方で、銀河で議論を重ねては、恬淡なままに不吉な要素を歌い上げながら、端末に送り込む悠揚な史実を破壊し、緩衝する間もなく、ただぶつかり合う二人の愛は、猥雑で幼稚な仕組みの中で普通を求めるほどに、その愛とは不潔なものにまじわりながら、自らこそいちばん綺麗である、と思えば思うほどに不純さを増すらしい、と虐げる間に不感症な存在は、確かさという足枷を自らに嵌め、首輪の不自由さを嘆いたか、と思えば、そこで老いることに複製される恐怖を復元するために、何度も過去に出戻り、デリカシーもなく、過信ばかりを謳いながら、奪われる真実との対立は避け、散漫な儀式で超過していく意識を改心させることもなく、意識的な儀式の犠牲として、自らに似たようなものを生贄として授ける。満足とは求めるほどに遠ざかり、与えられた価値の中では満足に近寄ることもできずに、不満をかかえたままに、憎悪を生み出す。